聞き取り その2

 (聞き取り年月 2011年9月)

 

 生まれは愛媛県宇和島市。その先の地名や番地は、もう覚えていない。その地で父親は、石屋を経営して石燈や墓石を彫っていたが、自分が小学校5年か6年の頃に死んでしまった。「石の粉を吸って肺を悪くした」と母親は言っていた。


 父の死後、母親は人を雇って石屋を続けようとしたが、次第に立ち行かなくなり、やむなく廃業した。しばらくはその家に住んでいたが、中学3年の頃、家を人に売り払って、一家3人、母親と姉と自分とで、市内のアパートに移り住んだ。貧乏だった。


 中学卒業後、アルバイトで近くの家具屋に約1年、食料品の卸問屋に約1年勤めたが、どちらも職場の人間関係がうまく行かずに辞めた。17歳のとき、「北九州に行けば仕事があるだろう」と思って、地元を離れた。小倉駅で手配師に声をかけられ、A工務店を斡旋されて、そこの寮に入った。埋め立て用の土砂を船に積む仕事や生コン打ちなど、あちこちの現場で働いた。7~8年は勤めた。


 25歳の頃、福岡に来て、B土木の寮に入った。日当は1万円、夜勤は1万8千円。そこから寮費として1日1000円が引かれた。賄い飯はもともとなかったので、当然、飯代の天引きはなし。T土木では、仕事も嫌ではなかったし、仲間との人間関係も悪くなかったので、楽しく過ごすことができた。結局そこで、二十数年働いた。母親が生きていた間は、年に二回、盆と正月に実家に帰って、ある程度まとまった金を母親に渡した。苦労して育ててくれたんだから、それは当たり前のこと。


 仕事が休みの日は、昼間はボートかパチンコ。夕方に中洲の居酒屋「酒一番」に仕事仲間と集まり、一杯飲んで時間を潰し、午後7時になったら、近くのキャバレー「桃太郎」にくり出す。それがお決まりのコースだった。「桃太郎」は、コンパニオンへの「お触り」はご法度で、それをやったら「即退場」という決まりだったが、好きに飲んで、仲間やコンパニオンとしゃべって過ごすだけで、けっこう楽しかった。


 仕事仲間に誘われてソープにも行ったが、つまらなかった。女を買ったのは人生でその一度だけ。金で女を買っても、いいことは何もない。結婚はしたことがない。一度、B土木の出張仕事で嬉野に行った時、スナックで働いていた女性に惚れて通いつめ、思い切ってプロポーズしたが、あっさり断わられた。それ以来、結婚したいと思った人は特にいない。女の人と親しく知り合うような機会もなかった。


 その後、B土木に仕事がなくなり、オヤジが廃業を決めたので、自分も含めて多くの労働者が一斉に首になった。しばらくは退職金でサウナに泊まりながら仕事を探したが、ついに金がなくなって、博多駅で野宿を始めた。築港に立つようになったのはその頃。主にやったのは舗装の仕事。地面に敷いたばかりの熱いアスファルトの上での作業は、まるでサウナの中にいるようだった。冬はまだいいが、夏は地獄で、熱中症で倒れたこともある。それでも随分続けた。


 今は、築港にも全然日雇い仕事がないので、アルミ缶を集めて生活している。回る範囲は中州一帯。野宿の仲間の中には、「そんな姿を人に見られたくない」と言ってアルミ缶集めを嫌う人もいるが、自分で恥ずかしいと思ったことは一度もない。中洲で昔の知り合いにバッタリ出会うことがあるが、「今どうしてる?」と聞かれたら、「アルミ缶集め」と答えている。どんなことでも仕事は仕事。悪いことをせず、一生懸命働いて暮らしているんだから、恥じることは何もない。