聞き取り その3

 (聞き取り年月 2015年6月)


 1942年に沖縄で生まれた。沖縄戦の時は、首里市(現・那覇市)に住んでいた両親が、私を連れて北部の山中に逃げ込んだので助かったという話を聞いた。もし南部に逃げていたら、自分は今こうして存在していなかった。


 家が貧乏だったので、地元の高校を卒業後、すぐに米軍の下請けの「A警備隊」という警備会社に就職して、嘉手納基地で働いた。民間会社とは言っても、米軍のMPが持って来る命令書で命令を受け、20発の実弾入りの弾倉とカービン銃を持たされて基地の警備をするという、軍隊そのもののような仕事だった。今では信じられないような話だが、「復帰」前はそんなことも民間人にさせていた。幸いなことに、人に向けて撃ったことは一度もないが、練習場では何回も実弾を撃った。乗用、大型の免許も重機の資格免許も基地で取り、基地の内外で軍用車両の運転もした。それらは米軍が出した免許だが、民間用免許への切り替えも、琉球政府に申請さえすればすぐにできた。


 1964年、22歳の時に、大阪に本拠を置くゼネコンの「B組」が、重機の運転手の募集に来た。当時はブルドーザーなどがワイヤーケーブル式から油圧シリンダー式に変わる時代だった。ワイヤー式と油圧式とでは操作が全然違う。米軍は早くから油圧式を採用していたので、手っ取り早く運転手を確保するには、扱いの慣れた者を沖縄から引っぱればいい。「B組」が沖縄までスカウトが来たのは、そういうことだったのではないかと思う。


 自分もカービン銃を持たされてウロウロするのが嫌になっていたので、その誘いに乗って、「本土」に渡ることにした。十数人が一緒だった。当時は、「本土」に渡るのにパスポートが要る時代だった。持って来たドルも円に換金した。船で神戸港に着き、電車で大阪の十三(じゅうそう)に行って、「B組」の寮に入った。工事現場で重機を動かすのが主な仕事だった。給料をもらったら、キタやミナミに飲みに行った。よく行ったのは宗右衛門町。飛田新地など大阪には遊郭のような場所が幾つもあったが、自分は一度も行ったことがない。


 そこで約6年働いた。しかし、一緒に来た仲間が沖縄に帰ったり、よそへ行ったりしてほとんどいなくなってしまったので、自分も沖縄に帰ろうと思い、そこを辞めることにした。72年の「復帰」を待って沖縄に帰った。しかし「復帰」はしても、沖縄に仕事がほとんどないということに変わりがなかった。銃を持ってうろつき回る米軍関係の仕事には戻りたくなかったので、与那国島でサトウキビの収穫の仕事に就いた。ひたすらサトウキビを刈ってトラックに積み、製糖工場まで運ぶというもの。給料は悪くなかったが、仕事があるのは収穫期(一〇月から翌四月まで)の半年間だけ。「本土」からもたくさんの若者が援農に来ていて、そこで半年働くと、後は給料を手に半年かけて沖縄中を回って歩くというようなことをやっていた。しかし沖縄の人間がそんなことをやっても意味がない。


 しばらくはそこで働いたが、得意の運転を活かす仕事がしたいという思いが強くなり、仕事を求めて鹿児島に出た。「C建設」やその下請けなどで、運転手として10年近く働いた。ユンボの運転もした。その後、熊本の「D建設」に移り、3年くらい働いた。ところがその会社は、次第に仕事がなくなっていき、おまけに社長が倒れて古株の労働者が次々と首になっていくのを見て、「それなら首を切られる前に」と思い、自分から辞めることにした。


 「福岡に行けば仕事があるかもしれない」と思い、2000年に福岡にやって来た。それまでに貯めた金でアパートを借りて職安に通ったが、8ヵ月間通っても仕事は見つからなかった。新聞の募集広告や電柱のチラシを頼りに、端から電話もかけてみた。「年齢不問」と書いてあるから「これなら」と勇んで会社に電話したら、真っ先に「お幾つですか?」と聞いてきて、断わられたこともある。職探しは頭にくることが多かった。金がなくなってきたので、家賃が払えなくなる前に解約してアパートを出た。


 その後は、市内の公園で野宿生活。テントは立てず、昼間は仕事探しや日雇い仕事に出て、夜は公園の建物の軒下で寝るという生活だった。野宿の仲間から教えられて、築港にも立った。アブレることも多かったが、足場、型枠、解体、舗装、港湾荷役、下水道の洗浄などなど、やれる仕事は何でもやった。ほとんどの場合、日当が7000円。自分は労働者を乗せて現場の行き帰りをする車の運転手もやるから、プラス500円で、計7500円というのが一回の収入。給料は安いが、色々な仕事を覚えることできて、いい経験になった。


 中にはひどい会社もあった。解体の仕事で行ったら、その建物の中は吹き付けのアスベストだらけ。作業を始めたら、その粉塵がモウモウと立ち込めて前も見えないほど。「マスクなしではとてもできない」と言ったら、現場監督から「肺に影響が出るのは10年以上あと。あんたの年なら、その頃にはもう墓の中。どんなに吸ったって関係なか」と言われ、そのまま仕事をさせられた。


 そんな生活を約10年続けた。公園で寝ていると、弁当などを持ってきてくれる市民もいたが、「他の人にやって下さい」と言って全部断わった。善意であることは分かるが、その善意が重荷に感じた。その代わり、野宿をする仲間からは、酒も、タバコも、賞味期限切れの弁当もよく分けてもらった。自分が仕事に行った時には、弁当やビールを買って帰り、お返しをした。そういう仲間同士の助け合いは、自分には気が楽で、そして大変ありがたかった。


 10年の間に、自分が知っている人だけでも、近くで5人が死んだ。親しく付き合っていた通称「松っちゃん」という人も、自分が泊りの仕事で何日か留守にして公園に帰ってみたら、テントの中で死んでいた。確かに死と隣り合わせの生活だが、自分はホームレスの生活が惨めだとも、つらいとも思ったことはない。ただ、仕事がない日に公園のベンチに座って、子どもの手を引いた夫婦連れの姿を遠くから見ていると、「あんな暮らしもあるというのに、俺はどうしてこうなったのか」、「俺はここで、いったい何をやってるんだ」という思いに駆られることがある。


 数年前に一度、生活保護をとったが、仕事で得たわずかばかりの収入を申告しなかったことを口やかましく咎められたり、やたらと気を遣わなければならないことばかりで、すっかり嫌になり、「もういいです」と自分の方から断わった。70歳を少し越えたが、まだ体は十分に動く。働いて暮らしたいという気持ちは今も変わらない。安くても、安定した収入があればそれでいい。だから今でも職探しをしている。行政には、どうしてこういう労働者の気持ちが分からないのか。


 沖縄について思うことは山ほどある。話し出したらキリがない。辺野古のことも気になる。沖縄が米軍基地でどんなに苦しんできたか、自民党の議員だけではなくて、「本土」のほとんどの人間が知らない。もっと知って、考えてほしい。